湯川寺ブログ

月かげの御詠歌
#湯川寺の掲示板

湯川寺の掲示板5:月かげの御詠歌

今回の掲示板は浄土宗の代表的な御詠歌『月かげの御詠歌』

この歌は

【お念仏称えるもの全てを阿弥陀様が極楽浄土に導いてくださる】

ということを月の光に例えて読まれたお歌でございます。

 

せっかくなので、そもそも阿弥陀様ってどういう仏様なの?という部分にも触れておきたいと思います。

阿弥陀様という仏様は、全ての人々の苦しみを自分が背負い、

人々の幸せと平和を求めたいという望みを立てられたお方で、

修行時代は法蔵菩薩と名乗られました。

計り知れないくらいの長い長い苦行の末、

望みが叶い阿弥陀如来となり、【南無阿弥陀仏】と自分の名前を呼べば、

誰もが平等に極楽浄土という場所に往生できるようにしてくださったのです。

この話から阿弥陀様は慈悲の仏様とも言われております。

 

この慈悲の心とは、「慈」には苦しみを抜いてあげたいと願う「抜苦」という意味があり、

「悲」には楽しみを与えてあげたいと願う「与楽」という意味を合わせて慈悲と言います。

もう少し分かりやすく例えるならば、子育てです。

子供が体調を崩した時、なんとかその苦しみを抜いてあげたいと願うのが親としての「慈」の心、

子供の好きな食べ物を用意して楽しみを与えてあげたいと願うのが「悲」の心です。

阿弥陀様は、まさに子供を思う親のような、慈悲深い心で私達のことを照らしてくれる。

そして南無阿弥陀仏とその名前を呼ぶ人々全てを人生の最後には極楽浄土へと導いて下さる。

優しい月の光のような仏様です。

 

そこで今日皆様にお伝えしたいのが、

その阿弥陀様の慈悲の心について、法然上人が詠まれたこの『月かげの御詠歌』です。

 

月かげの至らぬ里はなけれども

月かげというのは、月の光に照らされて出来る影のことで、月の光の働きを指す言葉です。

ここではお浄土にいらっしゃる阿弥陀様のことを月の光に例えています。

月の光がどこにでも届いているように、阿弥陀様は私たちがどこにいようとも「我が名を呼べよ、救うぞ」と、

慈悲の心でいつも月の光のごとく照らしてくれている。ということです。

 

ながむる人の 心にぞすむ

月を見て、「すごい綺麗だなあ」と感動する心は、実際に月を見た人にしかわからないという意味です。

同じように阿弥陀様は慈悲の心でいつも照らしてくれている。

だからこそまず私達がその事に気づき、

お浄土に気持ちを向けてお念仏することが大切であり、

念仏を称えるものは救われるという意味でございます。

念仏を称えないとわからない。信じるものは救われると言うと分かりやすいでしょうか。

 

月かげの至らぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ

今夜も必ず月が出ています、どうぞ少しの時間だけでも眺めてみてください。

優しい月の光のようにいつも阿弥陀様が、そして同じく極楽浄土にいるご先祖様は皆さんのことを照らして見守ってくれている。

このように思えると、きっと今まで当たり前のように見ていた月がほんの少し特別なものに思えてくることでしょう。

たまには月を見上げるように、普段の月参りや法事、お墓参り等を通じて、まずは皆様の方から心を寄せてみましょう。

目には見えないけれど、私達が思いを寄せて南無阿弥陀仏と称えると、

この世と極楽浄土でいつも繋がることができる。それがお念仏の教えです。

コロナ禍で目には見えないものに恐怖を抱くことも多い今ですが、

目には見えない極楽浄土の世界に思いを寄せて、

今を生きる為の安心感を頂きながらお念仏をお称え致しましょう。

満月

 

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